天使と僕の美しき日々・4

アダムは一人、ビルの屋上の淵に座っていた。じっと遠くを見つめている。 昼間食べたシナモンドーナッツの味も、コーヒーの味も覚えていない。忘れてしまった。天使に戻ると全て忘れてしまう。 また来てください。 マットの笑顔を思い出す。胸の辺りをアダムは撫でた。ずっと彼だけを見ていた。彼と出会ったのはいつだったか。一年ぐらい前だったか。優しい場所だな。とアダムはあのカフェの前に立って眺めていた。そしてその中で働くマットを見つけた。 笑顔で忙しそうに立ち回り、楽しそうに生き生きと働くマットを見て、アダムは目が離せなくなった。百年以上人間を観察しているのに、こんなに心ひかれる人間は初めてだった。 年配の客のために椅子を引いてあげるマット。忙しそうにカフェで立ち振舞うマット・・・ 閉店後に、掃除をするマット。小さな声で歌っていた。楽しそうに。

「・・・なんだかちょっと変な感じ・・・僕は自分の気持ちを隠すのが下手なんだ・・・」

エルトン・ジョンの「ユア・ソング」だった。マットの声は、いい声だと思った。

ティルダはいない。ティルダだったらなんて言うだろう。ティルダに助言を求めたい。 でもこれは、自分で考えて答えを出さないといけないのだ。 アダムは下界を見下ろした。

もう一度下界を歩いて、答えを探そうと思った。

夕方の街は穏やかだった。帰路を急ぐ人々の間をすり抜けながらアダムは歩いた。アダムの姿は誰にも見えない。ふと、街角にある花屋の前で足を止めた。アダムは色が分からなくても花が好きだった。 ぼんやりと花を眺めていると、奧から店主の男が出てきた。タートルネックのセーターにエプロンをつけて、顎にうっすらと髭をたくわえていた。閉店作業なのか花が刺さったバケツを次々と店内にしまっている。ふと、男は顔をあげてアダムを見た。にこりと笑った。

「ダサいコート着てるな。全然変わってないな」

男は確かに、アダムに言ってきた。アダムは目を見開いた。死に行く人間はアダムのことが見えるが、生きていく人間は見えない。彼は明らかに生きていく人間だ。アダムは男に近寄った。

「あなた。どうして僕が見えるんだ」

男は、ぱちりとウィンクして、アダムを指差した。

「前、俺もあんたと同じだったんだ。話してやるよ」

オスカー?と奥から女の声が聞こえてきた。赤ん坊の泣き声も。オスカーと呼ばれた男は、ちょっと待ってて。とアダムに言った。

「妻に言ってくるよ。昔の同僚に会ったって」

オスカーは奥に消えて行った。アダムは高鳴る胸を押さえてオスカーの背中を見つめていた。

 

「久しぶりだな。ここから見る景色は」

オスカーとアダムは、ビルの屋上に佇んでいた。柵の外だ。数百メートル下の下界などオスカーは何とも思ってないようだ。不思議そうに見ているアダムに、オスカーは笑った。

 

 

「今だけあんたと同じ天使に戻ってるからな。大丈夫だ。名前は?」

「アダム」

「俺はオスカーだ。人間みたいに握手しよう」

オスカーとアダムは握手した。手を離すとオスカーは言った。

「俺はさっきの花屋にいた女の子が気になって仕方なかった。アダムもそうなんだろう。ずっと見ている人間がいるんだろう?」 アダムは、マットを思いだしながら頷いた。

「ああ・・・」

「それは恋っていうんだ。分かるか?アダムは今、その人間に恋してるんだ」

恋。アダムの体にそれはすんなり入ってきた。もやもやが晴れるような気がした。

「恋・・・」

「天使だった時、一回だけ彼女の前に姿を現した。バラの花を一本彼女から買って、その場で彼女に渡した。すごく驚いていたけど、ありがとう。と言ってくれたよ。笑顔でね。そしたら、元天使だった男と会ったんだ。それは恋だと教えてくれた。アダムが俺と会ったみたいにさ」

「どうやって人間になったんだ」

オスカーは下界を指差した。にっ。と得意気に笑った。

「簡単さ。こういうとことから飛び降りるだけ。勇気いるけどな。わはは」

「飛び降りる・・・」

アダムは下界を見下ろした。今はすっかりネオン包まれている。オスカーに聞いた。

「オスカー。彼女はすぐに受けいれてくれた?」

得意気にオスカーは腰に手をやって頷いた。

「まぁな。もし受け入れてくれなかったらどうしようとか、深く考えなかった。人間になったらいろいろ考えようと思ったから」

戻ろうぜ。とオスカーはアダムを促した。二人は帰る場所を頭で望んだ。

次の瞬間、二人は花屋の前にいた。オスカーはアダムの手を握った。

「人間になるのもいいぞ。天使もいいんだけどな。もし人間になって何かあったら、俺を頼ってくれよ」

「ありがとう・・・」

じゃあな。とオスカーは店に戻って行った。アダムもその場から姿を消した。

 

「人間になるのね」

再び、ビルの屋上にアダムはいた。声に振り向くと、ティルダが立っていた。アダムは頷いた。

「ティルダ。僕は人間になるよ」

「ええ」

「・・・また会おう」

ティルダは、にこりと微笑んだ。

「ええ。会いましょう。アダム。これだけは約束して。人間になったら、自分の人生を愛するのよ。何があっても」

「分かった・・・」

ティルダは、笑ってそのまま消えた。アダムは再び前を向いた。目を閉じた。

アダムは百年以上人間を見ていたから、人間がどんなものか分かっている。

金欲しさに人殺しをする。

戦争をして、傷つけあう。

汚染物質を海に垂れ流して、そ知らぬ顔をしている。

アダムは、ゆっくりと前に踏み出した。両腕を広げる。 人間の世界に、身を投げた。どんどんと落下していく自分の体。

 

また、来てください。

 

そんな世界でも、君と一緒に生きていけたら、どんなに幸せなんだろう。

 

マットの笑顔を思いだしながら、自分も笑っていた。自然と目から溢れるものがあった。

これは、何だろう?

ああ・・・これは、涙だ。

 

アダムがそれに気付いた瞬間。どすっ。という音とともに視界が暗転した。

 

「・・・きみがいる世界に僕も生きられるなんて、素敵なことさ・・・」

閉店後。掃除をしながらマットは、エルトン・ジョンの歌を歌っていた。隣で一緒に掃除していたジョゼフが笑った。

「最近機嫌いいね」

「・・・そうかも」

アダムと出会ってから機嫌はよかった。

(またアダムに逢いたい)

家路についている時、ふと夜空を見上げて思った。星がとてもきれいだった。

「きれいだな・・・」

それに気付けただけで幸せだった。誰かが向こうからやってくる。背の高い男だった。 「あ・・・」

マットはやって来た人物を見て満面の笑みを浮かべた。初めて会った時とまったく同じ格好だった。走ってきたのか、肩で息をしていた。髪の毛もぼさぼさだ。ハイ。とマットは手をあげた。

「こんばんわ。アダム」

アダムは、突然ぼろぼろと涙をこぼした。えっ!!とマットは声をあげてアダムに駆け寄った。

「だ、大丈夫??どこか痛い?」

「・・・です」

「え?」

アダムは、ぼろぼろと涙をこぼしながら、震える声で言った。

 

「あなたが、好きです。あなたは、そんな髪の色で、そんな目の色だったんですね・・」

 

アダムは笑った。

「きれいだ。あなたが、好きです・・・」

マットは、その言葉に驚きながらも、自然とアダムの涙に手を伸ばしていた。アダムのブラウンの瞳を見つめて、笑った。

 

「ありがとう」

 

うん。とアダムは頷いた。ねぇ。とマットはアダムの手を握った。

「うちに遊びに来ませんか?」

アダムはこくりと頷いた。はは。とマットは笑った。

「おいしいコーヒーがあるんですよ。うちの店のだけど」

「嬉しい。マットの店のコーヒー。飲みたい」

いつの間にか敬語ではなくなっていた。アダムは笑った。

「じゃあ、行こう」

 

二人は手を繋いで、歩いて行った。

星の光と、月明かりが二人の行く先を優しく照らしていた。