悪の花嫁

私が狂っているのか。それとも向こうが狂っているのか。分からない。
だから私が見たままのことを話すしかないのだ。どうかこの話を聞いてあなたが判断して欲しい。どちらが狂っているのかを。一ヶ月ほど前の話だ。私は「 あれ」を体験して以来正気を保てずにいる。恐怖で外に出ることができなくなってしまった。

あれは私が山の中で迷ってしまった時だった。鹿猟りを趣味にしていた私は、車で一時間ほど離れた山に向かった。山歩きは慣れていたし、知らない山で遭難してしまわないように知識は持っていたつもりだった。
それが何故のか、その日に限って迷ってしまった。
「 参ったな・・・」
腕時計を見るとまだ夕方の五時だ。スマートフォンは圏外だった。普段なら野生の獣の気配や、風で揺らぐ木々の音が聞こえるのに、まったくその気配がない。私はだんだん気味が悪くなってきた。山に対してそんな思いを抱くことなどなかったのに。空気が重く澱んでいるように感じた。奥深い場所で薄暗くなってきた。
ふと、私の鼻につく匂い感じた。
「 えっ・・・・」
思わず声をあげた。山の中そんな匂いを嗅ぐなんておかしい。だがそれはまぎれもなく・・・
「 潮の匂い・・・?」
海で感じるあの匂いだった。何故?こんな山の中で?感じていた不気味さが、だんだんと恐怖に変わっていく。
「 迷われたのですか?」
私は悲鳴をあげそうになった。木陰から突然声をかけられたからだ。声の主が木陰から出てきた。
フードつきのマントを被って、右手にランタンを持っていた。背が高い男だ。男は被っていたフードを外した。
肩までの黒髪の、色の白い男だった。私はやっと安心した。男は人畜無害そうな、親しみやすい優しい目をしていた。
「 迷ってしまったようです。良かった。あなたに会えて」
男は眉間に皺をよせた。
「 それは災難でしたね。国道に車を停めてきたのですか?」
「 はい」
男はふと空を見上げた。そして私の顔を見て言った。
「 あと十分程で大雨が降る。国道まで行くのには一時間はかかります。どうですか?今夜は僕の家で休まれていきませんか」
「 えっ」
たじろぐ私に、男は優しい笑みを浮かべた。
「 見たところあなたは山の知識が豊富のようだ。大雨の中、山を歩くのは大変危険だということは分かっていますよね」
男の言う通りだ。私はため息をついた。男は私に近付いてきた。
「 僕の家には電話があるから、使ってください。 僕は一人なので気を使うことはありませんよ」
「 親切に・・・ありがとうございます」
「 僕の小屋はここから五分ぐらいです。行きましょう」
私と男は並んで歩いた。私は自分の名前を告げた。
「 あなたは?」
男は笑って答えた。
「 アダム。アダムと呼んでください」
男の屈託のない笑顔に、私は頷いた。
「 アダム。ありがとう。そう言えばさっき潮の香りがしたんだ。おかしいよな。」
アダムは足を止めた。私も足を止めた。アダムは私の顔を見つめてぽつりと言った。
「 潮の香り・・・」
「 気のせいだろうがね。アダム?どうした?」
アダムはふと笑みを浮かべた。
「 気のせいですよ。ほら。あの小屋が僕の家です。行きましょう」
「 ああ・・・」
先ほどのアダムの顔は、驚いている様子だった。潮の香りの正体が分かっているのかもしれない。釈然としなかったが、私はアダムの後について小屋の中に入って行った。

山小屋は清潔で、居心地がよかった。アダムは両親と暮らしていたが、五年前に母親を亡くし、去年父親をなくたばかりだと言う。
「 普段は町の図書館で働いているんです。父は図書館の館長でした」
「 なるほど。だからこんなに本があるんですね」
リビングの壁に本棚がはめ込まれ作られていた。その数は百冊以上ある。その数に圧倒されいると、キッチンからアダムやってきた。柔らかな笑みを浮かべている。
「 こんな夜は、酒より紅茶のほうがいいと思います。お好きでしたか」
アダムの両手にはマグカップが二つあった。冷える夜だったし、確かに酒より紅茶のほうがありがたかった。私はそれをありがたく受け取った。
アダムの言う通り、外は雨が降っていた。しかも強く、風も強い。ガタガタと窓ガラスが揺れた。アダムの家には電話があるものの、見たところテレビもパソコンもなかった。
「 珍しいですね。お若いのに」
アダムは私の言葉に笑った。
「 僕は必要ないんです。両親が残してくれたこの家さえあれば」
雷まで聞こえてきた。私は急に不安にかられた。先ほど聞いたばかりの妻の言葉を思い出す。気を付けてね。愛してるわ。明日には逢えるわね・・・
アダムはじっと私を見ている。ほんの近くで雷鳴が轟いた。アダムはぽつりと呟いた。
「 不安ですか?」
私が黙っていると、アダムはにこりと笑った。
「 明日には帰れますよ。先にシャワーを浴びてきてください。僕は寝室を用意します」
「 アダム。君はどこで寝るんだい」
「 僕はどこでも寝れますから」
私は不安に気付かないふりをして、笑みを返した。バスルームに向かうとき、キッチンを通った。私はそこで緑色の扉を見た。
「 えっ・・・」
その扉は異様だった。緑の扉は鉄製で、古いものだった。山小屋の中の扉は全て木製なのに、なぜそこだけ鉄の扉なのか。しかも錆びて、ところどころ剥げている。私はその扉に触れてみた。ひやりとした感触。そしてかかっている鍵は巨大な南京錠だった。南京錠は上から鎖がぐるぐると巻かれていた。
場所から考えるに地下室に通じる扉だろうか。私はその扉を見上げた。
「 どうされました?」
びくりと私は後ろを振り返った。アダムがタオルを持って立っていた。
「 これを使ってください」
「 あ、ありがとう」
私はタオルを受け取った。タオルを差し出すとき、アダムの手首がシャツからちらりと覗いた。黒い模様らしきものが見えた。
( 意外だな。タトゥーをいれいるのか)
私はバスルームに向かった。背後にずっとアダムの視線を感じていた。