キャンディ・1

第一章 夏(1)

「横浜メリーって知ってるか?」

ハックスの言葉にレンは首を横に降った。八月の夜の十時。ハックスとレンは歌舞伎町を歩いていた。ハックスの言葉は周囲の人々の矯声や、靖国通りを行き交う車の騒音の中でもレンの耳にはっきりと聞こえた。ハックスの声はいつもそうだ。 暑い夜で(東京の夏はいつも暑いけど)、人々は薄着で汗ばんだ身体を晒して歩いている。レンの横をオフショルダーのトップスを着た女の子が、黒人の背の高いボーイフレンドと腕を組んで楽しそうに歩いて通りすぎて行った。きれいな鎖骨をしているな。と思った。

「 レン」

ふとハックスに手首を捕まれた。はっ。と我に返ってレンはハックスを見た。

「 ガールズバー ハワイアン」 と書かれた看板が、ピンクと赤の電飾でぴかぴか輝いている。その横でヤシの木も点滅している。その前で立ち止まり、レンの手首を掴んできたハックスの赤い髪の毛も、その安っぽい電飾の前できらきら輝いて見えた。ハックスの形の良い額に汗が浮き出ている。レンはそれを舐めたいと思った。

「 大丈夫か」

ハックスは目を細めて聞いてきた。

「 大丈夫だよ」

レンはぽつりと返事をした。そうか。とハックスは気のないような返事をした。 ハックスはスーツのパンツから、iPhoneを取り出してGoogleマップを見た。

「 ・・・ここをまっすぐだ。キャンディっていうところだから。着いたら何か冷たいものを飲もう」

ハックスはそのままレンの指と自分の指を絡めてきた。

あっ。

声にならない声をレンは上げた。汗ばんだハックスの手。動揺しているとハックスは前を見たまま笑った。

「 誰も見てない」

言われて見れば確かにそうだ。レンは、ああ。と頷いた。

「 で、横浜メリーの話の続きは」

ああ。とハックスはまた気のない返事をした。彼の癖なのか分からないが、自分から話を振っておいて、レンが興味を持つと急に冷静になるのだ。
( 奥さんとか子どもの前ではそんなことしないんだろうな)
レンはハックスの左手の薬指にはめられた銀の指輪を見つめた。
「 横浜にいた娼婦だ。彼女は七十四才まで街角に立ち続けた。『何がジェーンに起こったか?』は分かるか」
「 それは分かる」
「 それのさ、べティ・デイヴィスみたいな真っ白なファンデーションの顔で、真っ赤な口紅で街に立ち続けた。彼女は・・・誰にも出逢えなかった」
レンの目の前に現れたのは、青い三階建てのホテルだった。できたばかりなのだろう。青い外壁には汚れはなかった。新宿という混沌とした街の中に、そのホテルはひっそりと静寂に包まれていた。
ホテルの看板には、白い筆記体で「 キャンディ」と書かれてあった。
「 彼女も俺みたいに出逢えればよかったのに。そうすればそんなグロテスクな姿で死ぬまで立ち続けることはなかった」
ハックスは足を止めて、レンを真正面から見つめていた。指は絡めたままだ。
その大きな手で、長い指で、今夜どんなことしてくれるの?
ハックスはレンを引き寄せて、軽く頬にキスをした。
「 逢いたかったよ。レン」
耳元で囁かれた。レンはぎゅっと目閉じた。ふと目を開けると、ハックスは薄く笑っていた。その冷たい青い瞳。レンはハックスの背中に腕を回した。
「 俺も、逢えて感謝してる」
「 いい子だ」
行こう。とハックスはレンと一緒に「 キャンディ」の中に入って行った。